この病院でのリハビリ内容
色々書き漏れてましたが、転院してから、この病院でのリハビリ内容、進展、思い出す限り綴ろうと思います。
理学療法、作業療法、一日の内、一時間ずつ、午前と午後に分けて行われました。
転院して間もなくは、座ってのリハビリは苦痛でした。
仰向けで辛うじて上がる左腕すら、座ると自重に耐えられず、テーブルにすら上げられない、右腕に至っては肩だけ動いて、後はどうにも動かせない。
仰向けで両腕を肩から上に片方ずつサポートしてもらいながら動かすのですが、右の腕を上げる時、肩の関節に筋肉が挟まる感じで痛くて動かない。
自らの意思に反してロックする。
「内旋、外旋」腕も本来回りながら動きます。
でもそれが上手く行かず、上がらない、テーブルの物を取ろうとする時は身体ごと動いてしまう。
これをコントロールするリハビリがメインで、テーブルでは小さな棒を指で回して、台の穴に刺す、違う穴に移動させる、他にもありましたが忘れました。
「座位、立位」
少しづつ血圧低下に耐える時間も増え、手すりが両方にあるスペースで支えてもらい、立ったり座ったり。
日々繰り返し、歩行訓練。
手すりを持つのにも力が入らないので、支えてもらい、反対側の椅子まで。
2メートル有ったか無かったか、1回でギブアップ。
それもじきに二回、そして三回。
自力で歩く夢へのステップアップが始まった。
足の指でタオルを手繰る、なれるとタオルに重りが乗せられる。
実はこれがいちばん嫌いでした(笑)
仰向けで膝を曲げ、押してくる手を蹴り返す。
これは褒めて貰えるほど力が出てきた。
上肢のリハビリが一番過酷、C3で頸髄損傷したのでホント厳しい。
でも、下肢のリハビリは頑張った。
いつ頃だったか、野望に燃える(笑)
歩行器で院内を散歩したい。
療法士さんに相談、なかなかゴーサインは降りない。
必死に手すりでのリハビリを頑張り、ついにその時が。
「〇〇さん、担当医の先生に歩行器での歩行を行えるように申請しておきますね」
「もし、許可が降りても必ず看護師さんに付き添って貰ってください」
いざ、リハビリ室で歩行器での訓練開始。
ブレーキが無いので、気を抜いて前に持たれかかれば顔面強打は必至。
悪ければ再起不能。
歩行器にもたれかかり、少しづつ歩き出す。
怖い、けどやった!!
カーブも曲がり、止まって車椅子に座る。
ついにこれで自由を手に入れた!
と、思ったが、担当医の判断で当面はリハビリ時のみの使用。
少しガッカリしたが、しばらくして看護師付き沿い条件でベッドの横に歩行器が置かれることになった。
嫁さん「お!やったやん!これで売店まで行けるようになるとええな」
嫁さん「これ、お小遣い入れたし、頑張って売店で買い物楽しんで」
受傷後初めてのお小遣い支給、売店でコーヒー買いに行けるよう頑張ろう。
ナースコールで看護師さんに付き添いをお願いして、毎日少しづつフロアを歩いた。
弱りきって、やせ細った脚は直ぐに疲れて立っていられず、ロビーの椅子に座ったりした。
手術後しばらくして、ついに単独で歩行器での歩行許可が降りる。
とにかく毎日、時間のある限り歩いた。
そして病棟の端に到達、懐かしいラーメン屋の看板に窓から再会出来た。
「久しぶりだな、食べに行きたいな」
寝たきり宣言から奇跡の進歩。
次に目指すのは杖での歩行。
毎日、毎日、歩いて夢を噛み締めた。
今夜はここまで、続きはまた。
クリスマスイブ
久しぶりの我が家の夜を楽しんで、夜更かしして眠りにつき、そして朝を迎えた。
嫁さんが2階から降りてきた。
嫁さん「おはよー、よく眠れた?」
「おはよー、うん、やっぱり家だと落ち着くね」
病院に戻るのは夕方、今日もゆっくりしよう。
ラックに輝く愛機達
その一台の愛機サーヴェロS3
あの事故で、どうやって無傷だったんだろ?
事故の瞬間は記憶が無いため、本当に不思議です。
まもなく朝食が整い、車椅子でテーブルに押してもらう。
長男と長女も揃い、まるで当たり前のような風景が広がる。
左手でスプーンを持つ事がなんとか出来るので、和食もこれで食べる。
日中どう過ごしたかな?もう覚えてない。
そして夕方
嫁さん「お父さん、そろそろ」
「ああ、もう帰らなきゃ(笑)」
リビングの窓から今度は引きずり降ろしてもらう、上がる時より脚から出してもらうので、幾分か手間も少なかったようだ。
子供達に
「元気でな!たまには見舞いもきてくれ」
生返事で見送られ(笑)
車は見慣れた景色の中、病院へ向かう。
地元なので直ぐに到着。
「○○さん、おかえりなさい!楽しかったですか?無事で良かった!」
早々に詰所の皆様に歓迎される。
「ありがとうございます、お陰様で我が家を堪能出来ました。」
嫁さん「お父さん、それじゃ」
「ありがとう、気をつけて」
病院のベッドに横たわる。
リクライニングを上げてもらい、テレビを付けてもらう。
そして夜になり、夕食が運ばれてくる。
クリスマスイブ、夕食に唐揚げだったか、チキンだったか?そのトレーに小さな可愛らしい箱が。
「○○さん、ケーキですよ、召し上がってください」
今年は二度もクリスマスイブを楽しめるなんて。
食事も終わり、テレビを観る。
夜のバイタルも終わり、消灯後の部屋で夜更かしテレビ。
深夜12:00頃に眠剤や神経薬を飲ませてもらい、眠りにつく。
色々抜けてる出来事も多いのだが、まもなく12月26日、脊髄損傷病棟から、少し離れたリハビリ病院に転院する事に決まった。
抜けてたこの病院でのリハビリは、また次に書こうと思います。
今日はここまで、続きはまた。
クリスマスイブのイブ
ついに待望の外泊の日、久しぶりの我が家へ一泊できる日が訪れた。
その日は12月23日、イブのイブでした。
車椅子を病院の玄関まで押してもらい、入り口で嫁さんの車を回してもらう。
立つのに補助してもらい、車まで支えてもらうのですが、綱渡りのような怖さ、転けないよう、必死に脚を踏み出す。
転けたら大惨事になるので。
車に乗るのも嫁さんに乗せてもらい、そしてついに出発!
嫁さん「とりあえずスーパー寄ろうね、貸し出しの車椅子あるから、それで買い物して回ろう」
近くのスーパーに到着、久しぶりだなぁ。
車椅子を持ってきてもらい、乗せてもらう。
いざ、店内へ。
「うわー、久しぶり、ワクワクするなー」
嫁さん「何食べたい?もちろんお酒はアカンで」
「とりあえずお菓子、それとケーキ!」
車椅子を押してもらいながら、欲しい物を選んでカゴへ。
世間の目が辛いだろうに、嫁さんが車椅子の私を押しながら買い物してくれた。
レジを済ませ、いざ我が家へ!
スーパーから約15分、見慣れた道が懐かしく、感激した。
そして到着。
「おお!我が家だ!」
玄関を歩いて入れないので、リビングの窓から長男と嫁さんに引きずり上げてもらうが、これがまた大変、10分程あれこれしながら何とか入れてもらえた。
「ただいま!元気にしてたか?」
子度達は変わらない態度で当たり前のように迎えてくれた。
こんな姿になっても、変わらず迎えてくれた、嬉しい事です。
「おかえりー 」
いつも通りゲームしながらの生返事(笑)
ベッドもリビングに降ろされていて、寝かせてもらう。
見慣れた部屋、私のベッド、傍らにはラックにかけられた2台のロードバイク。
「久しぶり、壊れてなくて良かった」
もう二度と乗る事の叶わないロードバイク。
嫁さんが事故で割たヘルメットを持ってきてくれた。
「代筆でTwitter頼む、とにかく世間に事故が起きないよう、伝えたい、私のような人が増えないように」
その後風呂に入れてもらった、バリアフリーがまさか自分のためになるとは。
リビングに戻り、お菓子を味わう、そのまま夕飯、クリスマスのご馳走が並ぶ。
久しぶりの団欒、心ゆくまでご馳走を食べた。
そして子供達は寝室へ。
私はテレビで夜更かし、柔らかなベッドで横たわり、番組を楽しんだ。
嫁さん「もう寝るけど何かあったら呼んでね、それじゃ楽しんでから寝てね」
キッチン側を明るくし、リビングはテレビの灯。
「嬉しいなぁ、早く帰ってきたいなぁ」
深夜そう思いながら久しぶりの我が家の夜を満喫した。
今夜はここまで、続きはまた。
術後
無事に手術も終わり、1週間程たった頃、半年は着けてなさいと前の病院で言われてたコルセットも外された。
首周りが圧迫感から解放されてスッキリ。
後、書くのを忘れてたのですが、寝たきりなので血栓が起きないように、脚にはマッサージャーも永く取り付けられてましたか、これもおさらば。
導尿のバルーン以外は外され身軽に(?)なりました。
食事の時は車椅子に座らせてもらい、介助で食べさせてもらうようになったのですが、記憶が曖昧で何時座らせてもらえたのか忘れましたが、首が痛くて10秒持たずにベッドへ戻してもらい、リクライニングで起きて食べさせてもらいました。
自助具を使って自分で食べようとしますが、連戦連敗。
スプーンは虚しく手に巻いたバンドから床に落ちました。
ナースコールは相変わらず押せず、ブレスコールでしたが、唯一動く左腕の上下で押せるように、嫁さんが百均アイテムで工作してくれました。
これがバッチリ!おかげで不用意にため息なんかでブレスコールを反応させて、御迷惑をかけることがなくなりました。
看護師さん達もその出来栄えに
「これ商品化したいくらいですね 」
と感激されてました。
テレビが楽しみな夜、ヘッドホンを掛けてくれたり、チャンネルを変えてくれたり、番組の事で盛り上がったり、身体は辛くとも毎日安心の病院生活。
サッカーの世界大会やバラエティ番組、なかなかです。
事細かに、夜中でも見廻りに来てくれて、相変わらず眠れないのですが、この頃から神経の薬とは別に眠剤も出して貰えるようになりました。
効果が短いので夜中に何時も飲ませて頂くことに。
毎日のバイタル、見廻りに介助、とても親切でこの病院は毎日感謝です。
そしていつ頃だったかな?
ビッグニュースが飛び込んだ!
「○○さん、手術の後も綺麗に塞がりましたね、血液検査も血栓が無ければ近々久しぶりの御自宅へ外泊して頂けますよ」
!!!
私「ほんとですか!?よろしくお願いします!」
もちろん歩けないし、まともに立てず、玄関からも上がれないのだが、嫁さんが、
「お父さん、良かったね、リビングの窓から息子と引きずり上げて入れてあげるし、途中スーパーで貸出の車椅子で食べたい物を買い物して帰ろう」
嬉しさに号泣した。
予定日を決めて、その日を心待ちに。
「ああ、楽しみすぎる、久しぶりの我が家に泊まれるんだ !」
入院生活初めての大きな楽しみ、その日の病院食はなんとハンバーグだった。
今夜はここまで、続きはまた。
手術の内容について
分かりにくい画像ですが、受傷時の状態です。
頚髄の一部が白くなってる所が頚髄の損傷した部分、そして頸椎からヘルニアが出ていました。
要約すると頭からの指令が身体にほぼ届かない状態です。
故に寝たきり、全介助の生活になります。
あれ?どうやって手脚うごかしたっけ?
そんな感じです。
今回の手術では頸椎の3~4番までの脊柱管を広げる為、骨の後ろ側から切り取り、ヘルニアを除去、それからセラミックの骨?で元の骨とくっつけて、脊柱管のスペース確保、ヘルニアの除去をすると言うものでした。
首の骨後ろ半分はセラミックです。
ちなみに頸髄損傷で、この手の手術を受ける時は事前に案内を見せてもらって説明されるのですが、後頭部の髪の毛を頭頂部近くまでバリカンされて、前衛的なヘアスタイルにされます(笑)
わかりやすい所で言えば、サザエさんに出てくる
ワカメちゃんカットです。
手術の辛さを上回る辛さでしたよ(笑)
術後は首の後ろ側から血液を抜くドレーンが繋がれます。
これはほぼ、2、3日で外してもらえたと思います。
無事手術完了、しかしこれで直ぐに頸髄損傷から回復はしません。
術後も、それから長くも、じわじわとリハビリを繰り返し、戦うのです。
その辺はまた改めて。
前の病院では最低半年は着けるように言われてたコルセットも術後1週間で卒業。
これだけで嬉しかったです。
介助で食事がこぼれて汚れたり、圧迫感で苦しかったりだったのがスッキリしました。
先ずはここから再スタート、そんな感じです。
今回はここまで。続きはまた。
予定日来たる
そして1週間、待望の手術を控えた前日、当日のオペに関しての説明等が行われた。
事前に虫歯や欠けそうな歯が無いか、歯科医のチェックもその前に受けていた。
全身麻酔なのでホースを喉から器官に(喉から肺)通す為、歯が取れたり、虫歯の菌が器官に入らないようにするためだったと思う。
画像上側が顔の方向で、この画像は手術後にまだ気管の管が入った状態です。
私の同室の方が先に手術を受けられてたので、オペ室から部屋に帰ってきてからの処置等、一連の流れは見ていたので特に不安も無かった。
当然、同意は以前に実家にも出してもらっていて、問題無く当日を迎えた。
「○○さん、今日の手術は前の患者さんが終わってからになるので、大体午後1時半頃からになります」
手術自体は2時間程、終わった頃嫁さんが見に来てくれるらしい。
ここまでにもっと色々段取りがあったのだけど、省略。
待ち焦がれた手術、いよいよ僕の番か。
外には移動のベッド、酸素(?)ボンベ等、出発の準備が整えられてる。
当然食事も水も取れないので、しばらく退屈、緊張感無し。
朝から待つだけなのでとても暇。
そして時が来た!
「○○さん、お待たせしました、手術室に移動します」
ベッドを乗せ替えられて、ボンベと共に移動、そして手術室へ。
何人もの医師看護師、そして手術台。
ベッドが起こされたのか、車椅子に乗せ替えられたのか忘れたけど、ここで麻酔が始まる。
医師「○○さん、それでは今から全身麻酔をかけます」
点滴がされ、さて、何時眠気が来るのかな?
と、しばし静寂の時が流れる。
…さん
…さん
「○○さん、手術終わりましたよ」
え!?何時の間に!?
初めての全身麻酔、手術は目覚めたら終わってた。
なんともあっけない感じ。
そして経過を観るため集中治療室へ。
仰向けに寝かされるのだが、なんだか枕がブロックみたいに固く感じた。
ちなみに首の後ろには手術した所にドレーンが刺さっている。
酸素マスクが口に。
腕には痛み止めの点滴。
「痛くなりそうならガマンせず呼んでください」
嫁さん「おつかれー、少し遅くなった」
安堵して話そうとしたその時、鼻での呼吸が出来なくてパニックに!
感じで言うと
「陸で溺れる」ような、とにかく口呼吸では追いつかず、苦しい!
私「早く!早く!なんとかしてくれ!死ぬ!死ぬ!」と叫び散らした。
おそらく首の後ろからの手術で長時間うつ伏せだったために、鼻腔が鬱血したのだろう。
看護師が薬局に点鼻薬を取りに走ってくれた。
荒い呼吸、苦しい!早く!早く!
医師「落ち着いて、口で呼吸が出来れば大丈夫です、落ち着いて呼吸して下さい」
間もなく点鼻薬到着、左右の鼻に噴射され、間もなく鼻が通った。
「すみません、苦しさのあまり口調が荒くなりました」
看護師「大丈夫ですか?苦しかったですよね、楽になりましたか?」
と、優しくなだめてくれた。
そして再び嫁さんと二人
術後何時間か忘れたけど、水も飲めない。
何時ぞやのように湿らせたガーゼで気持ちだけ。
夜中二時からだったかな?飲めたのは。
お茶を買ってきてもらってこの後夜中に看護師さんに飲ませてもらうことに。
嫁さん「お疲れ様でした、よく頑張ったな」
私「有難う、そして、こんな事になって、本当にごめん」
顔を歪ませ、涙が溢れた。
「大丈夫、心配いらんで」
涙を拭ってくれた。
今夜はここまで、続きはまた。
手術決まる
転院してから1週間、面談のために車椅子で別室に運ばれて、話し合いの(と言っていいのか?)時が来た。
医師「○○さん、私の見る所では手術をおすすめします」
医師「ヘルニアを除去すれば、右腕も動き出すかもしれないです、加えて、また乗られるかは存じませんが、自転車で転倒した時に脊柱管狭窄症を広げておけば、万が一、残った頚髄を守る事が出来ます」
前の病院でも診断されたのだが、私はどうやら普通よりも脊柱管の狭い身体だったらしい。
ただ、脊柱管狭窄症の状態が生来あったのなら、今頃自転車所ではなく、元より麻痺で不自由だったと思う。
そのギリギリのラインで生きてきたらしい。
私も嫁さんも
「手術、お願いします」
医師「分かりました、脊損ショックの症状が落ち着いてからでも良いのですが、早めに希望されますか?」
私「なるべく早くお願いできましたら、どうかお願いします」
医師「他の患者さんの手術の予定もありますが、なるべく早くに行わせていただきます」
そして手術が決まり、部屋に戻る。
同室の患者さん達が手術を受け、腰の悪かった人が杖で散歩に出たりする姿を見かけたりすると希望が湧いてくる。
「良かった、手術してもらえるんだな、僕も少しは良くなるかも知れない、早く受けたいな」
嫁さん「良かったね、多分早急に手術出来るように予定してくれるから」
そして三日程経っただろうか?
手術の日程が決まった。
医師「○○さん、1週間後に手術を行います」
かなり早めに予定を入れてくださった。
「ありがとうございます、宜しく御願いします」
何時になるだろう?2、3週間は順番待ちなのかな?そう思っていたので嬉しかった。
「手術、楽しみだな、右手動き出すと良いな、そして立てるようになって、叶うなら杖で歩けたらな」
嫁さん「そうだね、先生が手術したら良くなるから勧めてくれたんだし、沢山の脊損の患者さんを見てきてるから、きっと叶うよ」
心底ワクワクした。
そしてその日の夜も、優しく親切な看護師さん達に良くしてもらい、安心の夜を過ごす事が出来た。
大好きなテレビ番組を楽しみながら。
さて、今夜はここまで、続きはまた。